茶の湯の甘くないしょっぱい一面
祝日に、長めの時間をとったお茶のお稽古があった。
どういうわけか一つの茶碗を使って四人の客に薄茶をふるまう、
というお役目が与えられた。
お客となってくださるのは、みなさん目上の方々。
茶を点てて飲んでいただき、茶碗を返してもらって
ふき清め、次の茶を点てる。その繰り返し。
年長で、しかもものすごく上級者の方々に
茶を点てるわけだから当然、緊張する。
ていねいにしなければと意識してかしないでか、
一連の作業がゆっくり、というよりやたらと遅くなっていたはずだ。
そうすると見かねた先生が、一言。
「ゆっくりすればいい、ってものでもないから」と。
確かに。
ゆっくりていねいに茶を淹れよう。
そう思うのは大いに結構だが、それだけだと自己満足なのかも。
その時々の流れを見て、客を待たせすぎない。
すべての動きが漫然とダラダラしていては、たとえその気がなくても
場の空気が締まらないものになってしまうのだなあ。
「良い加減 = いいかげん」にできたらと憧れるけれど、
どんくさい自分にはほど遠い。
そんなことがあってから劇的に何かが変わったわけではない。
ただ、ふだんの生活に目を向けると似たことはあるかもしれないと思いはじめた。
たとえば職場で電話を取り次ぐとき。
受話器を丁重に扱って保留ボタンを押して、
担当者を呼び出すのもいいだろうけど、
この場合はやっぱり素早く対応したほうが、
電話をかけた側にも呼び出された人にも役立つというものだろう。
人のふり見てわがふり直せ、といきたいところだけど、
実際にはなかなか。