なずなノート

お茶や暮らし、映画、日々の発見をぼつぼつと、ぶつぶつと

映画「大いなる沈黙へ」思い出すことが大いなる収穫

 夜11:30。時計を見て、ふと思う。真夜中の祈りが始まるころだろうかと。

あるいは日曜日の昼下がり。楽しく談笑しながら散歩しているのかなと想像する。

本当は7〜8時間の時差があるから同じ時間を体感できるわけではない。

時差や距離といった物理的な隔たりより、もっと遠い存在であるけれど。

 

この映画を見てから、一生訪れることのない修道院で生きる

修道士たちを思う時間が生まれた。

 

「大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院 ー」。

フランスアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院は、

カトリック教会の中でも最も厳しい戒律で知られる男子修道院で、

生涯をここで暮らす修道士、および修道院を追ったドキュメンタリーだ。

 

彼らは一日の大半を一人で房で過ごし、祈りを捧げる。

生活、もっというと生きることすべてにおいて最優先されるのが、祈ること。

会話は日曜日の昼食後、約4時間の散歩の時間のみ許されている。

それ以外は意思の伝達はメモで済ませる。

 

一日に数回、礼拝堂に集まり祈るときも沈黙をつらぬく。

静かな日々の営みを的確にとらえるには、こちらは身の丈が足りない。

たびたびはさまれる旧約聖書の一節なども、まったく理解が追いつかない。

それでも、ひととき修道院に潜入させてもらった心地で

見せてもらったあれこれを、記憶があやふやながらも断片を綴ってみる。

 

修道士を志願する2人が、新たに加わる冒頭のシーン。

修道院長に許可された2人は、すべての修道士と抱擁をかわす。そこに会話はない。

あたたかな眼差しやほほ笑みが歓迎の意を言葉以上にあらわす。

 

暗くて寒い真夜中に起き、鐘の音を時報に自房や礼拝堂で祈る。

食事はパンとスープ、フルーツとごく質素。

自給自足、清貧のうちに生きることを選ぶ行き方。

 

映画にあるのが当たり前な会話のシーンが極端に少ない分、

自給自足の暮らしを支える日々行う作業や、まわりの自然の音が印象に残る。


服を縫うために布に鋏を入れる音、

木をのこぎりで引いたり、薪を割ったり。

散髪するバリカンのうなり、石の床を歩く音、風がたたきつける音…。


 静けさを大切にする修道院にあって、

日曜午後に許された会話の時間が楽しげだ。


気候のおだやかな季節。円になって聖書のことなど

修道院あるあるトークというか談笑をしている修道士たちに、

まぶしい日差しが降りそそぐ。その光景はもはや人間ではなく妖精に見えた。

 

凍てつく冬には雪ぞりで遊ぶ修道士たちの姿も。

キャッキャと盛り上がるさまは、どこにでもいそうな青年たちだ。


おそらく日曜日ではない日に礼拝以外で声を出していたのは、

屋根裏に住む猫たちにエサを与えているシーン。

大声で猫たちに話しかけているのが、結構おもしろい。


厳しい戒律の中で神に人生を捧げる人々は、どこかチャーミングでもあった。


ドイツ人のフィリップ・グレーニング監督は、

1984年に撮影を申し込み、16年後に撮影を許可される。

修道院の意向により、礼拝の聖歌を除いては音楽やナレーションを加えず、

照明も使わず自然光のみで撮影。

監督ただ一人が修道院に入ることを許され、2002年春から夏の4か月間と、

2003年冬の2か月間の計6か月間、修道士とともに暮らし、撮影したという。

 

なので作り込んだ感じではなく、見る人がその空間に自然と入っている心地になれるのかもしれない。

 

翻って自由を得ているような自分の有り様は、ただ自堕落なだけではないか。

映画を見て、そんなことを照らされた気がする。

何より彼の地に思いをはせる機会ができたことが得難い収穫だった。

 

3時間弱の長時間にわたり、あまりに静かな作品を見るという行為に、

何回か眠りの世界への誘惑に抗しきれなかったことを告白しておく。

 

2014年10月 第七藝術劇場で鑑賞。