なずなノート

お茶や暮らし、映画、日々の発見をぼつぼつと、ぶつぶつと

茶道を習うおもしろさを教えてくれた『日日是好日』

 「お茶のお稽古をすると、こんなふうに感じるのか」と、

茶道を習う心地を教えてくれた本『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』

(森下典子著/新潮文庫)。

 

エッセイストとして活躍する著者が、二十歳から25年以上にわたる

茶道との関わりをつづった一冊。

 

 母に勧められて何となく始めた茶道だが、

初めは決まりごとだらけで大いに戸惑う。

茶碗を右手で持つか左手か、あるいは畳を歩く歩数など、

どうでもいいようなことすべてに決まりがあり、

なぜかを先生に問うても答えはない。ただそうするだけ、と諭される。

 

 わからないことだらけの世界に、時には嫌気がさすが、

それでもふとした瞬間に、お茶を習う以前には気づかなかった季節の訪れを感じることもある。

もわっとした夏の熱気や、カサカサと音を立てる落葉の気配、

立春を過ぎてひととき春の訪れを感じるものの、再び寒さがぶり返して

本格的な春の到来はまだまだ遠いことを実感する……。

 

 そういった季節の味わいをはじめ、お茶を習いながら

たまに訪れる「ごほうび」のような時間を著者は、グラスに溜まる水に例える。

毎回のお稽古で一滴ずつ溜まる水が、次第にグラスいっぱいになり

ある瞬間にあふれる。その時は満たされるが、また空になって平静に戻る。その連続。

同じことの繰り返しではあるが、その軌道は前とはまったく同じわけではなく、

自分なりの歩みも見られる。

 

 そんなことを著者は「学校ではいつも他人と比べるが、

お茶はいつも昨日までの自分と比べる」と表現する。

たとえ理解が遅い人でも、その人なりの深さで学びがあるのだという。

 

 がんじがらめに見える茶道は、実はその人なりに進められる自由度が

すごくあることに、著者は気がつく。

そして、お茶の先生のお家にいつも掛けられていても

記号としてしか認識していなかった「日日是好日」という言葉に

あらためて出会う。

 

中国の仏書『碧眼録(へきがんろく)』に登場する禅語であるその言葉は、

「どんな日も、その日を思う存分味わう。

人間はどんな日だって楽しむことができる。

人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの連続の中を生きている」を意味するのだと。

 

お茶を習い始める前に飛鳥新社から出た単行本を見つけて、

潮文庫版も購入し、折にふれて何度も読んでいる。

実用的な情報は一切ないけれど、読むたびに発見がある。