なずなノート

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シネ・ヌーヴォで開かれた野上照代さんトークショー その1

 御年87歳! 姿勢がよくてチャーミングでかっこいい女性のお話を聞く機会をいただいた。

シネ・ヌーヴォで2014年11月22日、「『七人の侍』誕生60周年 黒澤明映画祭」の

メイン作品『七人の侍』上映後に開かれた、野上照代さんのトークショー。

 

野上さんは元黒澤プロダクションのマネージャー、スクリプター

1950年公開の『羅生門』で初めて記録係として黒澤作品に参加する。

野上さん23歳、黒澤40歳のころ。

その後、遺作となった『まあだだよ』にいたるまで、

『白痴』以外のすべての黒澤作品に携わったという稀有な存在である。

 

「私はほんとに『幸運の女神』に恵まれてるんですよ」という

野上さんのお話を聞きながら走り書きしたメモをもとに、覚え書き。その1。

 

まず野上さん。

「黒澤監督の全作品を上映してくれる映画館なんて、

東京でもないし、どこを探してもない。

本当に有り難いことです」と感謝を口にされた。

 

野上さんが初めて参加した『羅生門』完成後、黒澤本人は失業状態で

多摩川で釣りをして、しょぼくれていたという。

同じ時、1951年のヴェネチア国際映画祭では最高賞の金獅子賞を受賞!!

とはいえ会場には日本人の関係者は誰も来ていなかった。

大映の永田社長でさえ「グランプリって何!?」という時代だったとか。

 

1952年に東宝で公開された『生きる』の時に、野上さんは再び呼ばれる。

同作品は、ほとんど東宝の撮影所のまわりで撮影されたという。

「『生きる』のお通夜に出ていた人たち、みんな死んじゃいました」と野上さん。

 

つづいて本題『七人の侍』。

1954年5月にクランクイン。

一年かけて撮影し、通常の作品7本分もの製作費を投入。

基本カメラ一台で撮影し、合戦のシーンで初めて複数のカメラを使ったという。

これはマルチカム方式と呼ばれる。その後の『生きものの記録』では2〜3台とのこと。

 

「キャメラが何台あろうと、被写体がちゃんとしないと」。

黒澤監督はそう話していたのだそう。

 

「今のようにいろんな録音ができる時代じゃないから」、

七人の侍』に限らず音楽はスクリーンを後ろに掛けてフルオーケストラで録音。

緊張感みなぎる真剣勝負だったという。

 

野上照代さんトークショー その2はこちら